雨やどり〜azurの日記

令和二年、四月。家族が突然死で私の人生からいなくなってしまい、世界が変わってしまいました。「諸行無常」という言葉の意味がわからないけど、今の私には抵抗感しかありません(でもどうやら違うようですね)。後悔、罪悪感、悲しさ、寂しさ、その他雑多な感覚のなかで、意識が継続されることが苦しいです。

言い聞かせる

大家さん(この家の持ち主)は挨拶というものをしたためしがなくて、帰ってきても突然ヌ〜っと現れてゴソゴソと何かやっている。

 

「おかえりなさい」と声をかけても1、2回じゃ無反応。「おかえりなさい!」としつこく続けてようやく、

 

「ん」とか「ふ」と、こちらを見ずに声を発するだけ。そして必ずニヤニヤしながら〝しょうがないな〟というような素振りをする、という一連の流れまでがいつものパターンです。

試しにこちらが何も言わなければ永久に無言。

まるで、同じ空間にいながら次元が違って互いに見えないから干渉しない人間と霊のような感じです。

 

通路や庭先で「そこにいるな」と明らかにわかってる状態で歩いたり動いたりするときも、向こうはこちらを見えていなくて、下を見ながら、あるいは開きめくらの状態で突進してきて正面衝動することもしばしば。

廊下ですぐ背後を通ろうとしても、気づかないか、動きの想定ができずにぶつかったりする。ぶつかって初めて目の玉をまるくして初めて驚いたりしている。

その様子を見るのもなかなかこたえるもの。

 

Aさんがいた頃、

「おーぅ、今帰ったよー」「じゃ行ってくるからなー」

「おー、うまそうだなぁいただきます」

「よく寝られたか?俺は寝られなかったよー」

 

いつも当たり前に互いの存在を意識してのやりとりがあった。それはべつにきちんとした正当な挨拶というものでなくても、コミュニケーションがあったし、私もそれに応え、参加し、そこには「人との関わり」があった。

それは何も「うまかった」だけではなく、「固かった、まずかった」でも構わなくて、コミュニケーションがあった。

話しかけ、声かけも一度で充分届いて、ポンポンと意思の疎通ができた。

無言ですれ違う場合も呼吸を合わせることは普通にできた。そんなこと、意識すらしないことだった。

 

一度目→聞こえていない

二度目→聞こえたけど聞いていない

三度目→聞いた。そこまで

四度目→ん?返事を要求してる?

五度目→「ん」「ふ」

 

を何度も通過しないとキャッチボールができないなんてことはなかった。

 

 

でもそれは仕方ない。この人はこの人と尊重して、問題は私がどのようにこの人に感謝をし続けられるか?ということ。

返事もコミュニケーションもとれないけど、お世話になってるのだからありがたい、と思えなければいけないのだろうし、そう思えていたら幸せなのだろうから。

不満を持ってはいけなくて。

 

〝こんなしょうもない私にも、いてくれる人〟ということを、よくよくありがたがることを忘れてはいけないのだと思う。

 

でも、

できないのですよ。できていたような気がする時期もあった。でもその感覚は維持できなかった。どうすればいいのか?

仏教的には、どういう考え方をすればいいのでしょうか?