退行している。でもそもそも進化もしていなかった
蔑むような、侮るような、嘲るような、貶めるような視線を向けられるのが自分の育ち方のなかで当たり前だった。なのでそのほうが安住感があって、恒常性を感じられて安心だった。
「やはりこうでなくっちゃ」という定番だった。
幼いうちは自他境界性がないので ”自分もそうなら相手もそうだ” と見なすから、私もそういう視線を放つ癖がついた。
大人になりたまにそういう種類でない視線を向けられるとドギマギしてしまい、
「そんな視線を受ける資格はないのだけど…何か間違って送ってるのだろうけど勘違いが正された時あなたは〝チッ無駄遣いしたな〟という気分になって、その気分を受けて私は傷つくのでやめてよ〜」
という正当性を思って、心地が悪かった。蔑む視線でなければうろたえ、不適切と感じ、挙動不審になるのを抑えられなかった。
aさんはそこいらあたりの私の癖や習慣をガラリと変えた。aさんは私に対してフラットだった。aさんは、親との関係をうまくつくれなかった私の親代わりみたいに私の感情を育ててくれた。人間として人より何周も遅く生まれたような私は常識がなく、その為大人になってから有り得ない失敗の数々を繰り返したが、その根底を見直す作業にaさんの存在は協力的だった。
みんな、私がFBにaさんとのことを書いていると男女の仲だと思うだろうけど、わざわざ書くまでもなかったので説明しなかったが男女の仲ではなかった。私には親であり、先達であり、理解者であり、安住の場だった。なくてはならない存在で助けてもらったことが大きすぎて、だから働かなかったaさんを何年も養った。物質面での損失は膨大なものだったが、私には、だからかけがえのない人だった。
でも、まだその学習は途中で、学習自体なかなか苦しくて一進一退で「こんなところでいいか」といつでもできるわとサボっているうちにaさんは死んだ。
入り口に立った程度のところで高を括って怠けているうちにaさんは死んだ。でも今までのことを思うと入り口を見つけて立てただけでも物凄い発見ではあるのだが。
aさんがいなくなって、だんだんと意識が退行しているようだった。
先週、とあることがあってちょっと私が受け取るには上等過ぎる視線を受けながら会話をされたことがあり「痛い、やめてほしい」と思い、その視線からのがれたくなり逃げた。理由をつけてドアの外に逃れ、ホッとした。ホーッとした。
だんだん、また元に戻っていくような気がする。