雨やどり〜azurの日記

令和二年、四月。家族が突然死で私の人生からいなくなってしまい、世界が変わってしまいました。「諸行無常」という言葉の意味がわからないけど、今の私には抵抗感しかありません(でもどうやら違うようですね)。後悔、罪悪感、悲しさ、寂しさ、その他雑多な感覚のなかで、意識が継続されることが苦しいです。

救急車の音

am3時25分現在

うちの前の通りを救急車が行った。近所のどこかの家で、今大変な状態になっている人がいるのだろうか。

Aさんが部屋で死んでいる!!・・・?のを見つけた時、私も救急車を呼んだ。

 

でもそれ以前にもここ2年のあいだに何回か呼んだことがあるので、
私も慣れたものになって、

 

「救急です。住所は〜です。◯代男性、意識はあります。◯の持病があり通院中」等々、落ち着いて必要事項を伝えられるのが自分だと思っていた。
呼ぶ前にAさん本人に「本当に呼ぶけれど良いか?」確認を取る余裕もあったし、時には呼ばずに自家用車で出発して、途中の路上で受け入れてくれそうな病院に片っ端から電話している最中(だいたい断られる)、深夜パトロールのパトカーに路駐を注意され、状況を説明しその場から改めて救急車を呼んだこともあった。

家からAさんの荷物や保険証などを持ち出す手際も、慣れたものだった。意外と盲点だなと学んだのが「靴」。帰りに靴がない!ということになりかねないから。そして付き添いで乗った救急車を降りる時に、私はAさんの荷物と靴を必ず持って降りる、という動きも完璧に覚えたと思った。
とにかく私は自分で自分を、「冷静に救急に電話をし、理路整然と伝えることができる」と思い込んでいた。


でも4月16日の朝だけは全然違った。


「たいへんです、すぐきてください!!!こうこう、こうなんです!!!たすけてください!」

「消防ですか?救急ですか?ご住所はどちらですか?まず向かわせてからお話を聴きますので先に住所を・・・」


スムーズに答えられたものではなかった。



もう、私がここで救急車を呼ぶことはない。

でもうちの近所、この通りはよく救急車が通る。
そのやってくる音を聞くのが怖い。
呼び慣れていた当時はそんなこと思いもよらなかった。