雨やどり〜azurの日記

令和二年、四月。家族が突然死で私の人生からいなくなってしまい、世界が変わってしまいました。「諸行無常」という言葉の意味がわからないけど、今の私には抵抗感しかありません(でもどうやら違うようですね)。後悔、罪悪感、悲しさ、寂しさ、その他雑多な感覚のなかで、意識が継続されることが苦しいです。

2001年夏と小林亜星さん

小林亜星さんは20年前、現場で一緒になったことがあった。一緒に車に乗ったのだが、実際それはそれは物凄い巨体で、後部座席が一段ぐんと下がり傾いたようだった。

 

実はそこには同時に永六輔さんもいて、永さんもとても身体が大きかった。
永六輔さんは身長が高いうえに骨太で頑強な感じの体格。小林亜星さんは全体的にとにかく大きくそのうえ太っているタイプの巨体で、「大きい!」といっても大きさのタイプは違ったが、
ともかくその二人が同時に目の前にいて、一緒に車に乗るともう違う世界にいるようなビッグな空間だった。

その時居合わせた人で野坂昭如さんがとても小さく見えた。
居合わせた…というより野坂昭如さんが主役だったのだが。

その流れで銀座の山野楽器あたりを歩いたのだが、こちらは極少数勢。5、6人といったところでなんとなく地味に地道に歩いていたら、向こーうの方から何やら熱狂したカーニバル軍団が来る?このままだとすれ違う?と目を向けると、
黄色い軍団の田嶋陽子先生のサンバ隊だった。(法政大学の皆さんかも)

数十人の圧倒的なサンバ踊り子隊がスコールのように迫ってきて、中心には両手をあげてステップを踏み満面の笑みの田嶋陽子先生。

 

あまりの勢いと熱気に呆然とするコチラ勢。
すると私の後方からドタドタドタドタ!と局のカメラの人たちが駆けてきて、あの報道の大きめのカメラが私の後頭部を直撃し、何が起きたのかわからないまま「痛!怖!」と思うまもなく、野坂昭如さんをもスルーして、そのままカメラは目的のサンバの渦の中に消えてしまった。(当て逃げ。というか気付いてもいない模様)

 

2001年夏のこと。

 

野坂昭如さん、小林亜星さん、永六輔さん
ほか、中山千夏さん、黒田清輝さん

 

また千葉マリア、小林至、佐山サトル、嵐(横浜銀蠅)さんらとも合流したりした。

 

あの時は知らなかったが、のちに館山ダルク代表となる十枝氏も細かい作業など手伝いにきていた。

車は二台で、一号車は青森〜名古屋、新潟あたりまで。
もう一台はそこから沖縄までとエリアを完全に分けていて、私は一号車にいた。

前の日に東京で終わったりすると新幹線で秋田に移動して泊まる。夜中のうちに車は陸送されていて翌朝秋田のどこかに置いてある。
秋田から走りながら、イベントに合わせながらだんだん下ってきて仙台あたりにつき、東北は一旦切り上げとなるとまた新幹線で新潟に行き、車は陸送されている…というような動きをした。


新潟は1983年の衆院選田中角栄に挑んで敗れた地だった為、特別な地として設定していたようだった。

 

二号車には私の高校の同窓生だった友人が乗っていたが、期間中はそれほど連絡を取り合うこともなく、またこちらとは違う状況のなかで運行していたのだと思う。ただ二号車が担当した兵庫では、期間中にちょうど明石花火大会歩道橋事故が起きたことで当時とても気にしていた覚えがある。

 

のちに心残りとなったことがひとつ。


高速移動の時や効果的と思われる時に、とあるカセットテープをかけて車から流していたのだが、そのテープをいただいてくれば良かった、ということ。
野坂昭如さんがこのために歌って録音した歌で、でもどうやら「生キ残レ!少年少女」として楽曲にもなってはいるようだが、
あの時使っていたテープはほんとうにあれだけのオリジナルで、歌詞も編曲も他にはない唯一のものだった。(その時は知らなかった)


毎日毎日聴いていたので耳にこびりついて懐かしく、あれがあの活動で使っただけでお蔵入りしてしまったと思うと大変惜しい。

貰えるなら貰いたかったな、と。

2001年夏、この活動にまつわる思い出はまだまだたくさんあるので、また改めて。