雨やどり〜azurの日記

令和二年、四月。家族が突然死で私の人生からいなくなってしまい、世界が変わってしまいました。「諸行無常」という言葉の意味がわからないけど、今の私には抵抗感しかありません(でもどうやら違うようですね)。後悔、罪悪感、悲しさ、寂しさ、その他雑多な感覚のなかで、意識が継続されることが苦しいです。

退行している。でもそもそも進化もしていなかった

蔑むような、侮るような、嘲るような、貶めるような視線を向けられるのが自分の育ち方のなかで当たり前だった。なのでそのほうが安住感があって、恒常性を感じられて安心だった。
「やはりこうでなくっちゃ」という定番だった。
幼いうちは自他境界性がないので ”自分もそうなら相手もそうだ” と見なすから、私もそういう視線を放つ癖がついた。

大人になりたまにそういう種類でない視線を向けられるとドギマギしてしまい、

「そんな視線を受ける資格はないのだけど…何か間違って送ってるのだろうけど勘違いが正された時あなたは〝チッ無駄遣いしたな〟という気分になって、その気分を受けて私は傷つくのでやめてよ〜」

という正当性を思って、心地が悪かった。蔑む視線でなければうろたえ、不適切と感じ、挙動不審になるのを抑えられなかった。

aさんはそこいらあたりの私の癖や習慣をガラリと変えた。aさんは私に対してフラットだった。aさんは、親との関係をうまくつくれなかった私の親代わりみたいに私の感情を育ててくれた。人間として人より何周も遅く生まれたような私は常識がなく、その為大人になってから有り得ない失敗の数々を繰り返したが、その根底を見直す作業にaさんの存在は協力的だった。

みんな、私がFBにaさんとのことを書いていると男女の仲だと思うだろうけど、わざわざ書くまでもなかったので説明しなかったが男女の仲ではなかった。私には親であり、先達であり、理解者であり、安住の場だった。なくてはならない存在で助けてもらったことが大きすぎて、だから働かなかったaさんを何年も養った。物質面での損失は膨大なものだったが、私には、だからかけがえのない人だった。

でも、まだその学習は途中で、学習自体なかなか苦しくて一進一退で「こんなところでいいか」といつでもできるわとサボっているうちにaさんは死んだ。
入り口に立った程度のところで高を括って怠けているうちにaさんは死んだ。でも今までのことを思うと入り口を見つけて立てただけでも物凄い発見ではあるのだが。

aさんがいなくなって、だんだんと意識が退行しているようだった。
先週、とあることがあってちょっと私が受け取るには上等過ぎる視線を受けながら会話をされたことがあり「痛い、やめてほしい」と思い、その視線からのがれたくなり逃げた。理由をつけてドアの外に逃れ、ホッとした。ホーッとした。
だんだん、また元に戻っていくような気がする。

猫さんたちのシーズン

この3日間、うちの敷地で生まれていた子猫たちとお母さん猫の保護におわれていました。

 

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先ほど保護できた2匹


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昨日保護できた2匹


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お母さんと子猫たち。

 

先にお母さん含む成猫3匹を保護して避妊手術は終えて明日リリースされて帰ってくる予定です。

子猫たちはこれから身体を綺麗にされて里親さん探し。地域猫活動をしている知人に全面協力してもらい、全員無傷無事故、カラスにつつかれたりすることなく保護してもらいました。

2001年夏と小林亜星さん

小林亜星さんは20年前、現場で一緒になったことがあった。一緒に車に乗ったのだが、実際それはそれは物凄い巨体で、後部座席が一段ぐんと下がり傾いたようだった。

 

実はそこには同時に永六輔さんもいて、永さんもとても身体が大きかった。
永六輔さんは身長が高いうえに骨太で頑強な感じの体格。小林亜星さんは全体的にとにかく大きくそのうえ太っているタイプの巨体で、「大きい!」といっても大きさのタイプは違ったが、
ともかくその二人が同時に目の前にいて、一緒に車に乗るともう違う世界にいるようなビッグな空間だった。

その時居合わせた人で野坂昭如さんがとても小さく見えた。
居合わせた…というより野坂昭如さんが主役だったのだが。

その流れで銀座の山野楽器あたりを歩いたのだが、こちらは極少数勢。5、6人といったところでなんとなく地味に地道に歩いていたら、向こーうの方から何やら熱狂したカーニバル軍団が来る?このままだとすれ違う?と目を向けると、
黄色い軍団の田嶋陽子先生のサンバ隊だった。(法政大学の皆さんかも)

数十人の圧倒的なサンバ踊り子隊がスコールのように迫ってきて、中心には両手をあげてステップを踏み満面の笑みの田嶋陽子先生。

 

あまりの勢いと熱気に呆然とするコチラ勢。
すると私の後方からドタドタドタドタ!と局のカメラの人たちが駆けてきて、あの報道の大きめのカメラが私の後頭部を直撃し、何が起きたのかわからないまま「痛!怖!」と思うまもなく、野坂昭如さんをもスルーして、そのままカメラは目的のサンバの渦の中に消えてしまった。(当て逃げ。というか気付いてもいない模様)

 

2001年夏のこと。

 

野坂昭如さん、小林亜星さん、永六輔さん
ほか、中山千夏さん、黒田清輝さん

 

また千葉マリア、小林至、佐山サトル、嵐(横浜銀蠅)さんらとも合流したりした。

 

あの時は知らなかったが、のちに館山ダルク代表となる十枝氏も細かい作業など手伝いにきていた。

車は二台で、一号車は青森〜名古屋、新潟あたりまで。
もう一台はそこから沖縄までとエリアを完全に分けていて、私は一号車にいた。

前の日に東京で終わったりすると新幹線で秋田に移動して泊まる。夜中のうちに車は陸送されていて翌朝秋田のどこかに置いてある。
秋田から走りながら、イベントに合わせながらだんだん下ってきて仙台あたりにつき、東北は一旦切り上げとなるとまた新幹線で新潟に行き、車は陸送されている…というような動きをした。


新潟は1983年の衆院選田中角栄に挑んで敗れた地だった為、特別な地として設定していたようだった。

 

二号車には私の高校の同窓生だった友人が乗っていたが、期間中はそれほど連絡を取り合うこともなく、またこちらとは違う状況のなかで運行していたのだと思う。ただ二号車が担当した兵庫では、期間中にちょうど明石花火大会歩道橋事故が起きたことで当時とても気にしていた覚えがある。

 

のちに心残りとなったことがひとつ。


高速移動の時や効果的と思われる時に、とあるカセットテープをかけて車から流していたのだが、そのテープをいただいてくれば良かった、ということ。
野坂昭如さんがこのために歌って録音した歌で、でもどうやら「生キ残レ!少年少女」として楽曲にもなってはいるようだが、
あの時使っていたテープはほんとうにあれだけのオリジナルで、歌詞も編曲も他にはない唯一のものだった。(その時は知らなかった)


毎日毎日聴いていたので耳にこびりついて懐かしく、あれがあの活動で使っただけでお蔵入りしてしまったと思うと大変惜しい。

貰えるなら貰いたかったな、と。

2001年夏、この活動にまつわる思い出はまだまだたくさんあるので、また改めて。

記憶の符合、aさんとのシーン

いつもaさんのことを考えているので、ふと脈絡なく、とあるシーンが思い出される。
それらの記憶は断片なので、蘇ってきたらその記憶を辿り、再現していくと、次々と繋ぎ合わさり再確認している。

 

ふたつの別々に思えた記憶は繋いでいたら連続する出来事だった。

 

2015年12月のこと。
OLをしている友人M経由で、東京都K市のとある事務所へ手伝いに行った。

友人Mとは昔私が携帯電話のキャンペーンをしていた頃知り合い、同じメーカー(日本モトローラー)のダブルキャストだった。なので同時に現場に立ったことはないのだが、なぜか親近感を覚え親しくしていた。
その後Mにも個人的に大変なことがあり海外にしばらく滞在していたり、私も私で面白おかしく暮らしていて何年も会わなかった。

おそらく7、8年のブランクで突然私から2005年のイベントを手伝ってくれと連絡して再び繋がった。Mを派遣?した先へは私自身は本番は不在で、aさんが常駐する現場だった。

aさんにMほか私の友人達女性陣を任せた。

 

その後Mからの話によると、ちょうどその直前母親を亡くして呆然とし引き篭もっていたそうで、突然私からの無謀で強引な誘いだったのだが、無理矢理にでも外にでてイベント現場に出たことで生活を取り戻すきっかけになったのだそうだ。

そしてまた、Mの親はかつて赤坂見附で料亭を経営しており、議員会館から注文を受けたりもしていて、Mは子供の頃から学校から帰ると廊下で◯先生や△先生から頭を撫でられたり(実際名前聞きましたがそれはそれは錚々たる顔ぶれ!)、
海外の土産のブランド物のかばんを母親とM宛に貰ったりと、幼少の頃から大物を見慣れていた暮らしだったと知った。

 

今思うと携帯キャンペーンの頃、
「出がけにお手伝いさんと喧嘩しちゃってさもう」などと言っていたり、
どうも話によると門から玄関までの距離がすごくあるよな…?と思ったり、
女子大では友達の遊びの誘いを断る時「明日は誰それさんの結婚式があってお菓子を投げなきゃいけないからだめなんだ」という慣例をサラッと言っていたことがすべて符合した。

なんで携帯キャンペーンなどやっていたかというと、同級生らは女子大を卒業と同時にお見合いで決まった相手と即結婚コースが一般的で、学生の時はお見合いの状況で話題がもちきりだったそうで、女の子が働く?!などというとそれはあさましいこととして蔑視されたが、Mは興味がなく社会に出たり街場で働いてみたりしたかったのだそうだ。
(いつの時代だよと思うかもしれないがほんの25年程前です)

 

で、2005年のそれ以来Mは自分の仕事先の上司の関係で、どこかでそれ系のイベントがあり会社ぐるみで協賛となると率先して手伝い要員になりあちこちいくようになったのだという。

 

2015年はそういうことでMからの呼び出しだった。

偶然にもMに呼ばれて行った先は、その前年に私も行っていた別イベントで会ったことのある方の事務所だったのだが、事務所内で封入作業をしたり、折ったり貼ったりして楽しく過ごした。
aさんに現地まで送ってもらい、Mに話したら「ぜひaさんも手伝って」となり一緒に作業した。aさんとMも久しぶりの再会だった。2005年からだから10年ぶりか。

その後Mとはこれまた偶然にもA市でバッタリ同じ事務所で再会したりもした。あまり、いやほとんどない偶然だと思う。

 

話が脱線!

 

その作業を、日を空けてまた手伝いに行った時、さあまもなく夕方という時、別の友人Cから入電。
「急遽明日だけでいいから埼玉県A市に来られないか」
というので私はK市の手伝いが終わってその足でaさんとA市に向かい、ドンキホーテで歯ブラシや日焼け止めなど最低限のものを買い、そのままどっかで車中泊

(このパターンだとどこかのスーパー銭湯に行くことが多いがこの時どうだったかどうしても思い出せない)

 

(また、その日なのか別の日なのか帰りに都内の琉球料理に行ったのだが、それも繋がりが思い出せない)

 

翌朝駅で電話の主と合流し、aさんの車に乗ってもらい目的地へ。
そして1日終わって、待っていたaさんの車で帰る、と。

 

K市での楽しい封入作業と、
琉球料理と、
ドンキホーテで買い物した後風呂屋に行ったのかどうかと、
A市での一日の行動。

 

これらがバラバラのシーンで思い出されるのだが、よく集中して辿ると同じ流れの中の二日間だったんだ、とわかった。

 

aさんと私は最初から最後までこんなことばかりの連続だった。行き当たりばったりで16年間過ごした。
場当たり的に16年間暮らし、行き当たりばったりで死んだ。
〝ここいらでいっちょ死んでみるか〟という感じにaさんは死んだ。

 

10日間以上S県のとある市の河原で車中泊して日中活動し、商業施設で朝の洗面身支度をしたこともあって、それは私には楽しかった。
あれは夏だったので河原に停めた車に蚊が入って困ったので、車内に蚊取り線香を焚いて充満させたりしたが、今思うと無知…身体に悪かったと思う。
最終的に、夜中なんとなくその河原が不気味に思えて怖くなり、どっかの路上に場所を移した気がする。

とまあ、
なんのこっちゃ?と思うかもしれないが、わたしにはすごく大事なことで。
本当は詳細に日記をつけておけばよかった。でも今こうして思い出してからでも遅くはない。こうやって記録をしておくんだ。これからも。

黒い天然温泉にて

今日は物凄い突風。
さっきホテルの大浴場露天風呂に入っている時、風の音がまるで強烈な絶え間ない悲鳴のように聞こえおそろしくなった。
じつは少し怯えてしまった(風の音とわかっていても)。
「こんなふうで怖かったよ!凄かったんだよ」とaさんに話しかけたい。
いやそれよりこの世にaさんはいないから風の音なんかが怖かったのかもしれない。今までだってこんな音は何度も聞いてきたのに平気だったのだから。

出動ラスト

本日で最後の出動。先月の出張のとき、ふときっかけがあってaさんの名前で記名Suicaを作ったのだが、
持ち歩いてるけど使っていない。

乗り慣れない通勤のこの路線も慣れてきた頃に、
本日で最後の出動。

 

で、朝の混雑する駅で人の波に乗って階段をのぼっているとき、

 

「この、順番に階段をのぼっている人たちのなかには、明日死んでしまう人もいるのかもしれないのだな」

 

など思う。

 

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鎌倉のビッグマスク

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鶴岡八幡宮の参道のこのコもマスクしている。ねえねえaさん、このコもマスクしてるよ、教えたい唯一の人なのにいない。どこにいるのだろう。

何かおもしろいものを見つけて写真に撮るにも、aさんに見せたい、見てもらいたい、見てもらって反応してほしいから撮ってたはずで、

そもそも私の本質ではたいしておもしろいと思ってもいなかったりして、材料として集めてただけの部分も大きかったのではないか。

今、果たしてなぜ何のために写真に撮っているのだろう。

 

二階堂、浄明寺という地名があって日本画家の平山郁夫先生の御自宅もあった。

歴史的風致維持向上計画の文字のポールを見ながらaさんどこにいるのかな、と、また一日ぐるぐる巡る。

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