雨やどり〜azurの日記

令和二年、四月。家族が突然死で私の人生からいなくなってしまい、世界が変わってしまいました。「諸行無常」という言葉の意味がわからないけど、今の私には抵抗感しかありません(でもどうやら違うようですね)。後悔、罪悪感、悲しさ、寂しさ、その他雑多な感覚のなかで、意識が継続されることが苦しいです。

思いのメモ

f:id:azurazul:20200623233549j:image

 

これまでどう言い表したら良いのか、正確なニュアンスがどれも違うようで有耶無耶にしていたが、近いかもしれないものを見つけた。

 

「人のことをモノのように扱う、見る、使う」

 

という指摘の自分の中身を探っていて、何か違うような遠いような気がしていたのだけど。

これはもし「モノも大事に扱う」場合と「モノは乱雑に扱う」場合でもその先が変わってくるわけで、

それと多分モノを大事にする人は人も大事にしそうだし、ともかくこの表し方は自分のそれとは違う気がしていた。

 

モノを、

「気まぐれで入手して少し使って、あるいは使いもせず飾るわけでもなく飼い殺しに手元に置いて、かといって整理するでも処分するでもなく所有した状態に執着があって、

壊れたら汚れても手入れを面倒がり放置して、手放すことはしたくなく、壊れた汚れたまま置いて、果てにカビたり燃えたり失う段になった時に泣くほどの執着で手放し難くなる。そのモノを使ってあれやこれやしている場面を空想して泣く」

 

という感覚。

使わないのならどうにかすればいいのに

使わないのに執着もあるし頭にもある

壊れたら治すなりメンテナンスすればいいのに

大事に取り扱えばいいのに

結果、そのキープ状態が不可能な事態になって慌てて悲しむ。

 

私のモノに対する姿勢はいつもこれだった。

そしてヒトにも同じことをしてしまったのがこのパターンだと、急死したAさんのことで実感した。人だから取り返しがつかないのはもちろんだけれど、モノでも取り返しがつかないのは同じ。(違うけど)

 

「壊れちゃった?電池入れ替えたらまた動くかな?あれ動かないや

動かないね。また同じの買わなきゃ」

 

モノの場合はそうなって、だとしてもそれは悲しいのだけど、

人はそれと同じではないのだけど、私はそういう感じなのではないか?

そんなふうな気で扱っていたのではないか。

 

「人をモノみたいに扱う」 

この一言だけとは違う、モノへの見方からして出発点がこうだから、

まあ結果同じことになるのだけれど。

 

 

Aさんはいなくなってしまった。電池なんかなくてもう動かないし、もう私のところにいなくて。

 

いま私はAさんと一緒にしてきた仕事をしているけど、教えてもらったこと、育ててもらったこと、引き立ててもらったことを潰してしまいそうだ。Aさんがいなかったら何もできない。

できているように見えるかもしれないけど、じつはできない。

 

 

ねえ、今日は急に半日空いてね、私赤坂にいるんだ。来てお茶でも飲もうよ。ホテルはこんなところだよ。シャワーが変わってるの。

昨日はこんなふうな動きをしたよ。

その前の日はこんなハプニングがあって私これをやったよ。この場合どう思う?ねえ、ねえ。