雨やどり〜azurの日記

令和二年、四月。家族が突然死で私の人生からいなくなってしまい、世界が変わってしまいました。「諸行無常」という言葉の意味がわからないけど、今の私には抵抗感しかありません(でもどうやら違うようですね)。後悔、罪悪感、悲しさ、寂しさ、その他雑多な感覚のなかで、意識が継続されることが苦しいです。

何かが決定的に違う

全然違う。体裁とか格好とか綺麗な追憶とか、そういうものを記録するためのものじゃないんだ。
さっきの投稿は出来事としては本物だけど、改めて読むと本質のあるところは全然違う。誰か他の人のオハナシのように見える。
とにかくこんなものではない。これは私の話じゃあない。創作物みたいだ。
「私は悪かった」と自覚してますよ、とアピールをしながらも、「そんなことないよ」と思わせよう言ってもらおうという根性が見える。

私はとにかくもうひどかった。他者からは体裁はよく見えたかもしれないけどそこじゃなくて。心に宿していた思いはひどかった。
多分悪魔とか餓鬼とか、定義される言葉以上のひどさ。誰かと比較するのは難しいけど、比較できるとしたら末期的な位置にあると思う。

今からAさんのお骨に会ってきます。
あの朝、Aさんが死んじゃった!嘘!というパニックから、救急隊がきて警察がきて葬儀社がきてそのうち身体が運び出されていって何が何だかわからないまま、

「ハイお疲れ様。さ、日常の時間に戻ってね」

といきなり現実に戻れといわれ、みんなうちから引き上げていったけど私だけ今までと変わらない空間に引き戻され、だけど当たり前にここにいたAさんはいなくなっちゃってて、それでも「さあ日常ですよ」ということになっていて、
私は粘って身体をよく見るとか、見送るとか、できたはずなのにしなくて、とにかく車に積まれて運び出されていて。

そこからずっと会ってない。
正確にはその前の日から会ってない。
知り合って16年、こんなに長く会わない、喋らない時間はなかった。初めて。

お骨に会ったら、すぐそばで会ったら、Aさんに会えたことになるのだろうか?
「久しぶり」という感じなのだろうか?
お骨を手に持ったら、肩に触れたときや腕に触れたときと同じなのだろうか?
私が行ったらAさんは私だとわかるのだろうか?
帰りたくなくていつまでもそこにいたくなりがちな私の癖を思えば、「行く」ことそのものがタブー行為にも思えるのだけど、どうだろうか。
レシート一枚ろくに捨てられない私は(Aさんが焼き芋を買った時のレシート等)、きっと行ったら離れたくなくなる。


いずれにしろ私はひどかった。今もそうで、相当ひどい。
サイコパスなんだろうと思う。

Aさんは私の味方で支えてくれていた。でも私の犠牲になって尊い命がこのようなみじめな形で失われてしまった。
Aさんに帰ってきてほしい。