雨やどり〜azurの日記

令和二年、四月。家族が突然死で私の人生からいなくなってしまい、世界が変わってしまいました。「諸行無常」という言葉の意味がわからないけど、今の私には抵抗感しかありません(でもどうやら違うようですね)。後悔、罪悪感、悲しさ、寂しさ、その他雑多な感覚のなかで、意識が継続されることが苦しいです。

雨やどり

Aさんが部屋で亡くなっているのを発見した時、その日や次の日や翌週…などに共通の友人知人や連絡をした方が良い人、単に私が伝えたかった人、などに連絡をした。

少し経ってから頭で考えて連絡した相手もいる。

 

一方で親しさの度合いに関係なく今も伝えていない人もいる。

連絡しそうになって直前でやめた人もいる。

なのでAさんが亡くなったことを知らない人もいる。

 

どういう選り分けをわたしはしているのか。

 

あるひとりは、反応とその先の言動の想像がつき、それを思うと負担が苦痛だったので伝えなかった。大騒ぎして、勝手に色々解釈して(大概明後日の方向に)、それをほうぼうに吹聴して拡めるであろう人。

 

あとはなんとなく「Aさんが死んでしまってもうこの世界にいないんだ」という意識をまだ帯びて欲しくない人。

その人のなかではAさんは何事もなく生きていて、良い性格も良くない性質も持っているAさんが今も存在していて、その世界には私もいて、という「Aさんがいるこの世界」を当然として認識しておいてほしい、まだ知らないでいてほしい、その意識で私の存在含めて認識していてほしい。

もう少し、しばらくの間はこの人の意識が更新されないことで、私に執行猶予の期間をあたえてほしい。ふ、とオアシスのような場がその人であってほしい。

 

 

そんなような感覚で、伝えていない相手が何人かいる。

その人たちが知ってしまったら、ほんとうに私は戻るところがなくなってしまう気がして。

(そんなところはないのだけれど)

 

 

また、何人かは伝えたことで「言うんじゃなかった」と少し後悔した相手もいる。

Aさんの話ぶりとその相手からの反応にギャップがあったりする時。

 

でもこれら選択に違いのある全員をひっくるめて考えてみて、結局私のエゴなのだなとも思った。

「Aさんのため」に連絡をしているのか?

「私自身のため」に連絡をしているのか?

 

連絡を受けた相手はAさんのために私がしていることだと思うだろう。

でもそこは大義名分で、私のことだからおそらく違う気がする。

私がラクになりたくて、逃避したくて、した相手もいたはず。何かを期待するような、すがるような気持ちを向けた相手もいた。

 

連絡しない選択の理由で考えればわかりやすいこと。

 

ちょっと息継ぎがしたい時のため。

息継ぎが出来なくなる時もそのうちやってきてしまう。

 

 

小林牧場の前で音を立てると、牛がびっくりしてしまうからだめなんだって、とAさんからはじめて教えてもらった。

 

左に見ながら一旦通過して、すぐ先でUターンをして、右に見ながら戻ってくる。そのいつもの道はまだ今回は見ていない。

人が変わるとコースのセンスも変わる。

 

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