雨やどり
Aさんが部屋で亡くなっているのを発見した時、その日や次の日や翌週…などに共通の友人知人や連絡をした方が良い人、単に私が伝えたかった人、などに連絡をした。
少し経ってから頭で考えて連絡した相手もいる。
一方で親しさの度合いに関係なく今も伝えていない人もいる。
連絡しそうになって直前でやめた人もいる。
なのでAさんが亡くなったことを知らない人もいる。
どういう選り分けをわたしはしているのか。
あるひとりは、反応とその先の言動の想像がつき、それを思うと負担が苦痛だったので伝えなかった。大騒ぎして、勝手に色々解釈して(大概明後日の方向に)、それをほうぼうに吹聴して拡めるであろう人。
あとはなんとなく「Aさんが死んでしまってもうこの世界にいないんだ」という意識をまだ帯びて欲しくない人。
その人のなかではAさんは何事もなく生きていて、良い性格も良くない性質も持っているAさんが今も存在していて、その世界には私もいて、という「Aさんがいるこの世界」を当然として認識しておいてほしい、まだ知らないでいてほしい、その意識で私の存在含めて認識していてほしい。
もう少し、しばらくの間はこの人の意識が更新されないことで、私に執行猶予の期間をあたえてほしい。ふ、とオアシスのような場がその人であってほしい。
そんなような感覚で、伝えていない相手が何人かいる。
その人たちが知ってしまったら、ほんとうに私は戻るところがなくなってしまう気がして。
(そんなところはないのだけれど)
また、何人かは伝えたことで「言うんじゃなかった」と少し後悔した相手もいる。
Aさんの話ぶりとその相手からの反応にギャップがあったりする時。
でもこれら選択に違いのある全員をひっくるめて考えてみて、結局私のエゴなのだなとも思った。
「Aさんのため」に連絡をしているのか?
「私自身のため」に連絡をしているのか?
連絡を受けた相手はAさんのために私がしていることだと思うだろう。
でもそこは大義名分で、私のことだからおそらく違う気がする。
私がラクになりたくて、逃避したくて、した相手もいたはず。何かを期待するような、すがるような気持ちを向けた相手もいた。
連絡しない選択の理由で考えればわかりやすいこと。
ちょっと息継ぎがしたい時のため。
息継ぎが出来なくなる時もそのうちやってきてしまう。
小林牧場の前で音を立てると、牛がびっくりしてしまうからだめなんだって、とAさんからはじめて教えてもらった。
左に見ながら一旦通過して、すぐ先でUターンをして、右に見ながら戻ってくる。そのいつもの道はまだ今回は見ていない。
人が変わるとコースのセンスも変わる。