雨やどり〜azurの日記

令和二年、四月。家族が突然死で私の人生からいなくなってしまい、世界が変わってしまいました。「諸行無常」という言葉の意味がわからないけど、今の私には抵抗感しかありません(でもどうやら違うようですね)。後悔、罪悪感、悲しさ、寂しさ、その他雑多な感覚のなかで、意識が継続されることが苦しいです。

まぼろし

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街中を移動していて次々と見える景色の中に、aさんがいる妄想をする。
この家のベランダに、あの公園のベンチに、そのスーパーの買い物客の中に、夕方の駅の階段に、古民家レストランの行列に、そこかしこにaさんがいる妄想をする。
どこにでもいるようなつもりを起こす気にもなるけど、この妄想遊びはもうどこにもaさんはいないんだという気づきを際立たせる。

 

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カルガモと木

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aさんと犬とよく散歩した公園に、昨日久しぶりに行った。

公立の大きな公園でゆっくり一周すると一時間じゃきかないし、コースも枝分かれしているので全部の道を一回で網羅できないような広大な公園。

池にカルガモの大人が二羽いた。

昔ここでaさんと、カルガモの親子連れがぷかぷか泳いだり歩いているのを飽きるまで眺めていたな、と思った。

 

スマホで繁殖期を調べたところ春先〜初夏頃との事。そして寿命は5〜10年だそうだ。

とすると今そこにいる二羽は10年前にaさんと眺めたあの時のヒナということもあるかもしれないな、まあそんなこともないかな、等考えるなどした。

カルガモさん、公園の木々たち。aさんを覚えている?aさんと私がここに来て過ごした記憶を、木々たちにはいつまでも覚えていて欲しいと思った。

そのうち私もこの世からいなくなって私がaさんのことを思い出さなくなっても、木々は私たちのことを覚えていて欲しいなと思った。

 

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思い出は皆後悔

たぶん去年の今日とか、今頃だと思う。

「おーぅ、犬の散歩にでも行かないか?」

と声をかけにきたaさんに、私はにべもなく断ったんだ。
部屋で寝っ転がっていて今やってることを中断したくなかったことやメンドクサさから、
「えー今?雨も降りそうだしよそうよ」と。
雨が降りそうだなんて理由はこじつけで、単に面倒だったから散歩の誘いに耳もかさなかった。
二度とaさんと一緒に歩けなくなる日が迫っているとも知らなかった。

一年前に顔を見た最後の日

一年前の今日(日付変わる前の昨日)が、aさんの顔を見た、話した、最後の日だった。

「おーぅ、背中のここのとこに湿布貼ってくれよ」と言われて貼った。

あの時の部屋の空気、会話した時の自分の心持ち、aさんの様子、全部覚えてる。
私はあの時期没頭してる趣味があって前の日にもその話などしながら返ってくる耳の痛いaさんの言葉に若干イライラして突然会話を終わらせたりした。
湿布は貼った。けど心配も何もしてなかった。言われた以上のこともしなかったし、心を配りもしなかった。
突然死んでいた朝は私が貼ったその湿布を身体に貼ったまま警察に運ばれて行った。(あの湿布、とっておけばよかったな。今思うと宝物)

1日が、1時間が、1分が途方もなく長くて早く時間が過ぎてほしくて、寝ている時だけは意識なくいられるから大半を寝て過ごしていて、目が覚めてしまったらまた寝なきゃ!と寝て、私は大半を寝て過ごしている。

ただ時間が経つのを耐えるだけで凌いでいたけど、逆にもう本当に1年が来てしまうのだということが怖い。1年目が来ないでほしいという矛盾した思いがある。
遠くなってしまう気がする。

 

そう考えると現実との間に剥離を感じる。
私は現実には〝aさんの死から一年経とうとしている人〟だけど自分の中にはその事実と矛盾するような感覚もある。
「一年前にaさんが死んだ」のは事実だけど、一年前も何年前も関係なくて、私は毎日aさんを失っている気がする。毎日、絶え間なく死別してる感覚がする。意識あるときは常に今死別してしまったばかりという感覚が溢れている。

前の住みか

あの部屋に戻りたいな。今のところじゃなくて、前にaさんと住んだあの場所にもう一度暮らしたい。

毎日いろんな感情でドアを開けた時の気持ち、部屋で過ごした堕落した日々、出かける時、帰る時、バス停、散歩道、不便な外階段。


殺風景でべつに何も良くもないところだけど、細部まで、そのときの感覚まで覚えてる。もう帰れないあの部屋に帰りたいな。

 

もう私が入れる空間ではないのだけど、なんだかまだ自分たちの居場所のままな気がしてならない。

 

去年犬が手術する前日、もう明日には犬も生きていないかもしれないと思って犬連れてあの部屋の前まで行き近所を歩いたんだ。

犬、足取りでちゃんと家を覚えてたよ。玄関ドアに前足をかけて、「早く開けて開けて」のポーズをした。ちゃんと記憶と結びついているんだね。このドアを開けたらaさんがいるかも!って犬も思っただろうか?

それからいつもの公園やコースを散歩した。
次の日のその時間には犬もこの世からいなくなってた。

見える景色は同じはずなのだが

あれ、私は今なにをしているんだっけ。何のためにここにいるんだっけ。

この窓からaさんも2005年に同じ景色を見た可能性がある。

あの時の出張にはaさんもこの部屋にいた。夜はサイゼリヤに繰り出したりなどした。

あの時の対象の方はあれから随分偉くなり国民の知る立場へとなった。aさんは死んだ。私は何をしているんだろう。

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