雨やどり〜azurの日記

令和二年、四月。家族が突然死で私の人生からいなくなってしまい、世界が変わってしまいました。「諸行無常」という言葉の意味がわからないけど、今の私には抵抗感しかありません(でもどうやら違うようですね)。後悔、罪悪感、悲しさ、寂しさ、その他雑多な感覚のなかで、意識が継続されることが苦しいです。

選択を回避したこと

この一年は夏の盆踊りも冬のイルミネーション見物も行かなかった。
それはひとえにコロナ禍で「行かない」ことが一択強制だったからなのだけど、私としてはひとつ助けられた感じ。

9ヶ月前に死んだaさんとは、毎年欠かさず夏の盆踊りに行った。7月8月は各週どこで開催されるか調べ上げて、あちこちの盆踊り会場をハシゴした。

地元の会場では近所の健康センター(日帰り温泉)の割引券付きのうちわが配られて、それを集めてaさんとお風呂やさんに通った。朝から晩までお風呂やさんで過ごして、リクライニングでTVを見たり食堂で過ごしたり煙草を吸ったりして過ごすのが贅沢に感じ、楽しかった。

冬のイルミネーションは欠かさずというほどではないが何回か行った。厳寒の中歩き回った記憶が、寒さの強い体験と相まって焼きついている。

aさんと恒例行事のようになっていたそれらが、この一年はコロナ禍のため開催されなかった。

でも私にとってはひとつ救われた。

今まで欠かさず行っていたものが、aさんが死んで、その後開催されたら、自分の意思ひとつで行くかor行かないかを決定することになるので、

その結果生まれる感情を引き受けることから逃れられたように思う。

〝行く〟〝行かない〟どちらにしろその選択を決定するのは重くて、どちらを選んでも苦い感情を味わうことになるのは想像つく。
その結果味わうであろう自分の感情を、自分以外のところに責任を置くことで回避した。

(そのうち開催される年がきたら自分で決定しなくちゃいけないことになるので、つまり今回は先送りができたということ)

ついでにこのまま桜も咲かないでいい、咲かないでくれたらいいと思う。