この橋を渡ったら
多摩センターは昔通学に使っていた駅だけれど、サンリオピューロランドの台頭でか時代の流れか、様子が変わっていた。
到着をしたらもう今日の業務もおわりか、と、あとは時間があったので少しぶらぶら駅周辺を歩いてみた。
橋が見えたので立ち止まってみた。
昔子供の頃に見た忘れられないNHKドラマ「もどり橋」(市川森一:作)を思った。
多摩センターのその橋は陸橋で下には道路が走っていて、渡る先の向こうには大きな木が見えた。19時を過ぎていて少し暗かった。
なんとなく橋の出発点に立ち止まりAさんを思った。
〝もしこの橋を渡って向こうまで着いたらAさんが戻ったりしないだろうか。私なら、もしかしたらあるかもしれない〟
と思って…というか、思ってもいないのだけどその橋でAさんとの時間を遊びたくなって歩いてみた。
歩き始めてみたら、意図せず、橋の距離(長さ)とAさんと暮らした16年間を照らし合わせて、
橋の終わりが昔の2004年、歩きはじめが今現在という軸に置き換えて、進みながら過去に巻き戻してその時の思いや状況を頭で辿っていた。
尺と思いの変遷の照合がわりとうまくて、中間地点あたりは8年前…少し進んで10年前…初期の頃の13年前は…というふうにして、感情と出来事やハプニングなどを回想しながら、橋のおわり=出会った時の場面にまで巻き戻してみた。
そこに立って、2004年のAさんが「やあやあ」といった調子で現れないかな?としばらく待ってみたけれど、そんなことは起こらなかった。
駅前の方が騒がしい。そろそろ駅前に戻らないと。
振り返っていま渡ってきた橋を今度は「いま現時点」まで戻る。
出会った時。
万能感、心躍って希望に満ち溢れた思いの日々。
不安不満も顔を出し始めた時。
方向性が定着して、その立ち位置から希望を見た日々。
平坦な暮らし。
倦怠感。
手抜き。
距離。
愛着、親代わりのような安心感。甘え。しがらみ。怠惰。
病気の不安。執着の気づき。
エゴ。
幸せの思い込み。
漫然とした日々と少しの不安。
狭い視野。狭い心。
そして復路は橋の渡り始めに再び戻って着いた。
回顧遊びは、最後の一歩で橋の始まりに着地したところで突然Aさんが死んで終わってしまった。
また振り返って向こうの木を見た。向こうは出会った16年前。いま立っている足元はAさんがいない世界。橋の向こうとこちら。地続きのこの橋を進んだだけで違う世界。
橋の途中にはAさんはいた。
橋の途中にずっと居たかった。渡り終えたくなかった。渡り切ってからそう思って戻ってみても、渡り終えたことをなかったことには出来ないようだった。
渡って行ったら会えるような橋が、日本のどこかにないのだろうか?
誰かが、私の気性は橋姫と同じだと言っていた。日比谷神社にいるという。(あまりないらしい)
日比谷神社は、この前調べた戸籍謄本によると先祖の氏神に関わる地域らしい。
この橋を渡ったら。
あちらとこちらを繋いでくれるところは、どこかにないのだろうか。