雨やどり〜azurの日記

令和二年、四月。家族が突然死で私の人生からいなくなってしまい、世界が変わってしまいました。「諸行無常」という言葉の意味がわからないけど、今の私には抵抗感しかありません(でもどうやら違うようですね)。後悔、罪悪感、悲しさ、寂しさ、その他雑多な感覚のなかで、意識が継続されることが苦しいです。

享年という表記の受け入れ難さ

先日、Aさんが週3回通院していた近所のクリニックの担当医師と面談し話を聞いて来ました。
担当医はAさんの分厚い診療記録を前に「何が知りたいですか」というスタンスであり、一方で私は「何が」ということもわからないから(知らないことがわからない)「知らないことを何でも知りたい。質問のレベルがわからない」という感じなので、上手に質問ができませんでした。
それでもポツポツと質問しながら答えてもらって、いくつか状態を細かく聞くことができました。しかし聞けば聞くほどに後悔することばかりでした。


ここのクリニックには私自身も月1回通っていて、私の通院の時には時間を合わせて一緒に駅前まで出て食事をしたり、院内でその姿を探したり、それほど大規模でもない院内でバッタリ鉢合わせたりということが通常でした。
でもこれからは院内のどこを探しても姿はないし、帰り道もひとりです。どこかに寄り道するようなこともなくなります。出口を出て、家と逆方向の繁華街の道を選ぶこともなくなります。
先日は出口から繁華街への道筋をボーッと眺めていて嗚咽を止めることができませんでした。


書類の記入に私が名前を代筆することも、代理で返事することも、精算することも、承諾書に家族としてサインすることも、もうなくなりました。
院内での軽食の食事代の請求書がうちに届くことも、もうなくなりました。Aさん宛ての郵便物が届くことも、即ちなくなりました。


これからは何のために私は通院をするのだろう?
院内での待ち時間、何を心に宿して過ごすことになるのだろう?私の持病を治す、あるいは良好な状態を維持するために通院するのは何のためなのだろう。


Aさんの担当医から、要所要所での検査の記録紙のコピーをもらいました。
そこに「氏名(享年◯歳)」と書かれていました。
享年です。とても不思議な感じがします。