亡くなった人に会いたい
Aさんはある朝部屋で突然亡くなっていた。
前の日なんてロクに話しもしていなかったのに。背中が痛いから湿布貼ってくれよ、と言われてハイヨと貼ってあげたのが最後になるなんて思わなかった。
救急隊、警察、警察が呼んだ葬儀社が次々とうちにやってきて、その間私は1階の廊下部分で犬に向かって、
「Aさん死んじゃったよ、Aさん死んじゃったよ犬くん、Aさんが死んじゃったよ」と何度も何度も口に出して廊下の入り口から突き当たりまでを行ったり来たり往復をするしかなかった。
Aさんの部屋があった2階には、あれから一度もあがれなくなってしまった。
2階への階段も目に入れたくなくて、私は1階の居間にずっと篭っている。私の部屋も2階なのだけど(隣同士)、いつもは2階にあがって声をかければAさんはいるのが当たり前で、
「おーう」と声が返ってきて、犬を入れたり適当に声をかけてみたり、気が向いたら1階に降りてテレビを見たり、スーパーに行こうよ〜と誘ってみたりとにかく2階にはAさんがいるのが「当たり前」だったから。
でも今は2階に行ってもAさんはいない(はず)。
だけどもし今、久しぶりにあの階段をのぼって2階に行ってAさんの部屋の懐かしいドアを見たら、「Aさんがいる」と思ってしまう気がして。
でも実際はいなくて。
そんな想像ができるし、その時にまた「いないんだ」という事実を再確認することに耐えられないかもしれない気がして、2階にあがれなくなってしまった。
居間のソファを並べて、座布団を折って枕にして横になってる毎日。
1日が果てしなく長い。でもこんなふうな5年や10年はきっと早いんじゃないかと思う。
1日のサイクルなんて出鱈目なもので、24時間に区切られていないとてつもない自堕落な時間を貪ってしまう。そんななかでひとつの傾向に気がついた。
朝(というか眠りから覚めた時)、目が覚めて意識活動が始まったとたん、
「Aさんがいない世界がまた始まっちゃった」という意識に拘束される時間が進む。日中、時々はどうやらそれが勘違いで、じつはAさんはいて、というような気にさせられることもあるけど、頭の中ではわかっている。
Aさんがいない時間がただただ流れるのを耐えるためだけに私の意識は存在して、30分経った、また次の1時間が経った、というふうに時を追いかける。
頭のなかではぐるぐるぐるぐる、死とは、死後とは、あの世とは、魂とは、亡くなった人と話したい、話せるのか、等々休む間も無く考えているうちに、
1日の後半や夜になっていくと、その状態に少し慣れてくる。
そして寝落ちするように眠って、
朝意識を覚ますと、またAさんのいなくなった私の終わりのない時間旅行がはじまる。